じ治きた勉木銃太郎辺勝べんぞうふくなべまさるのうみんすずじゅうろうわた勉三の妻リクの話 その晩は,ゆかのそまつな小屋をアイヌの人から買い入れ,たわらを切ってつくったムシロを土間にしき,その上にまるで犬かねこのようにねころんで休みました。次の日から,太いヤナギを切ってゆかをこしらえ,ヤナギの木の皮をはいで,水にひたしたにわかづくりのなわで木と木をむす結び,ようやくつくり上げた13戸のほっ立て小屋で1年間をすごしました。ばんせいしゃめいいずさいしょよこはまひつようはこだておびひろ113晩成社の人々27名の社員のうち,ほとんどは伊豆地方のまずしい農た。・女性~8名・最年長~54才・最年少~2才三が副社長,鈴がかんぶとして晩成社をまとめていました。 おがみ小屋(ほっ立て小屋よりそまつな小屋)民でしと渡初に何をしたのでしょ16)年3月,晩成社の人々浜で必館に着きました。広へ要な物をじゅんつらい道のり 晩成社の人々はどのようにして帯やってきて,まず最う。 1883(明は伊豆を出発し,横びし,4月14日に船で函海とりくの2グループに分かれ,オベリベリ(帯広)へ向いました。海路は海があれて船がしずみそうになったり,りく路はふぶきの中,雪どけで水かさのました川を歩いてわたったりして,やっとの思いで5月に帯広に着きました。 帯広へたどりついたその日から,きびしい生活が始まりました。休む間もなく,雨をしのぐだけのそまつな「ほっ立て小屋」をつくることから,開たくの生活がスタートしたのです。
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