3・4年社会 きょう土読本「新得」
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歩ぶ径候きかい類冷民いちょっけいるいちょうれいがいみんこう<バッタによるひ害>8月4日,とつぜんバッタの大ぐんが南から飛んできた。天をおおい日光をさえぎる。その数,いく百万かわからない。石油かんなどを打ち鳴らしたりたいまつをたいたが,ふせぎきれない。たちまち作物や野菜を食いつくし,野には緑が見えなくなった。バッタは好きなものなら根まで食べてしまう。最後には,まどにはった紙や部屋の中の衣まで食べてしまった。たびかさなるさい害1883(明治16)年5月~あちこちに野火が発生。開たく地にせまる火をひっ死に消し止める。6月~日照りが続き作物の育ちが悪い。7月~日照りが続く。蚊が大発生。畑仕事がほとんどできない。8月~バッタの大ぐんがおそう。ねつ病が流行し半数以上の移民がたおれる9月~はつしもがおりる。11月~はつゆきがふる。苦しい生活の中で勉三は「開こんのはじめはぶたとひとつなべ」という歌を作りました。開こんの計画では,15年間で10,000町よそ10,000ha)でしたが,実さいに開こんできた畑の広さは1000町歩ほどでした。当時の帯広は,直1mをこす大木とせたけほどの草がおいしげる一面の原野でした。晩成社の人々は,のこやかまなどを使って,すべて手仕事で開こんしていきました。手のまめはつぶれ,大木を切りたおすにも一日がかり。やっと切った切りかぶの間に,ひとくわおろしてはたねをまく。毎日がそのくりかえしでした。(おやブヨ114や土地に合う作たちも,一人また一人進まぬ開こん 開こんが予定通りに進まなかったのはなぜでしょう。 勉三たちは,十勝の気物を求め,いろいろなたねをまきました。しかし,最初の3年間に実ったものはほんのわずかでした。 バッタのひ害だけでなく,長雨,こう水,害にみまわれる年もあり,晩成社の人々は,生きていくのがやっとというありさまでした。やがて,大きなゆめをえがいて帯広へやってきた移と勉三のもとを去っていきました。

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