み見ち知し23)年からは,元さむらいだった人(士じ治民いし士族ふ結ふき府景気し囚人内り族が住用いしゅうじんないりくようはたらへいおくぞくせいぞくじゅうつづけっしゃけいせんそう戦めい 1890(明 「外国から北海道を守り,開たくを進める」という,2つの目的を同時にかい決する方 ふだんは開こんや兵のうみん争に出る兵隊と農人からもとん田兵がぼ集され,札つとめました。1899(明治32)年にとん田兵のしくみがなくなるまで,およそ4万人のとん田兵とその家族が37の村をひらきました。法としてつくられたのが「とん田兵」です。隊の訓民をかねた人たちのことです。練をしていますが,いざというときには)だけでなく,農家の,上地方の開たくにほうほうへいたいさっぽろくんれんそら幌をはじめ,空ぞく族かみかわきた川,北117でんへいみんとん田兵のくらし世の中が不い人たちがお金を出し合い,開たくの会社をつくり,だん体で移住して来た。●開たく使が(兵屋)や道具を用意してくれたので,くらしの心配はそれほどなかった。●しかし,毎日の生活はきびしく,朝早くから夜ねるまで,すべてラッパの合図で行動しなければならなかった。●畑仕事だけでもたいへんな上に,兵隊としての訓練も続ならなかった。移民明治政ができるときの戦いに負け,生活にこまった士一門一家をあげてだん体で移して来た。けなければ社移民で生活が苦し 屯田兵が開いた村の分布図による道路づくり陸の原野へ開たくに入るため,安く急いで道路づくりに利されたのが,何千人もの囚人たちでした。どれいのように働かされて死んでいった人がたくさんいました。北海道開たくのかげに悲しいぎせいがありました。とん田兵のしくみ とん田兵とは,どんなしくみでしょう。「もとさむらいだった人で仕事のない人がたくさんいたので,その中からとん田兵をぼ集したんだよ。」いろいろな移 とん田兵の他にどんな人々が開たくにきたのでしょう。
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